■ 杖を撮ること、その写真を見ること(2017年)

「病む人は、病いを物語へと転じることによって、運命を経験へと変換する。身体を他の人々から引き離す病気が、物語の中では、互いに共有された傷つきやすさの中で身体を結び付ける苦しみの絆となる 」
アーサー・フランク/Frank, Arthur W.『傷ついた物語の語り手――身体・病・倫理』鈴木 智之 訳

立つことと落ちること、固まることと溶けることなど、相反する二つの運動に着目しながら、ひとと世界との固定化されない関係について制作している。 多くは空間に展開するインスタレーション作品となっていくなか、平行して4年ほど前から杖の写真を撮るようになった。 様々な経緯をもつ杖とまわりの風景を写真に収めてきたが、カメラの前で杖が立つという奇妙な一瞬、その場の雰囲気がいつもふっと和らぐ。 量や長さや力で、身体の価値を測ろうとするならば、ひとは他人と引き離され続ける。 しかし、誰もが柔らかく傷つきやすい身体によって毎日を生きている。「誰かの足の痛み」を予感させる杖が、すっくと立つ姿は、未だ見ぬ者の痛みが融解するような不思議な感覚をまとっている。写真の中の「誰のものでもないし誰のものでもある」その杖を、手にとるのはあなたでもかまわない。測ることのできない柔らかな身体についての物語を作るということは、その作品が見るひとのからだの数だけ何度でも完成するということだと思う。

■ 「発話とブドウ」に寄せて(2016年)

子どもはだいたい一歳前後から言葉を覚え、話し始めるという。
左側の壁に映し出された映像のなかの10人の子どもたちは、 時々、ぶどうを頬張りながら、何かを発見したり、まわりのひとの口真似をしたり、 自分に注意を惹きつけたりするために、声を発する。 すると右側の壁の映像のなかで、ひとが紫色のハンカチを干す。 ビルの屋上でいっぱいに吊るされたハンカチは風のなか、強くはためき、映像は終わる。
初めてDungeonを訪れたとき、天井が低い展示空間に立って、ぶどう棚の下にいるような感覚を覚えた。そこで生ったぶどうが、遠く離れた場所の子供たちのもとに巡り、そこで発せられる言葉は、ぶどうの皮のように吐き出され、また見知らぬ遠くの屋上で、濡れたハンカチとして干され、そこに吹きぬく風によって地下室に戻ってくる。

そんな妄想の一巡を、世界の分類をほかの誰かに預けない為のひとつの小さな抵抗として提示する。

■ ステートメント(2016年)

外界に「身体」を見つけること。
はじめは水や樹木といった自然物、船や柱などの構造物、 やがて人の所有する(していた)杖、食器、ハンカチなど、人が触れて使う物のなかに、 「身体」と共鳴するものを見出しながら、制作してきました。 それは見立てという方法に近いものです。

例えば、雪景色を想像してもらえますか。 想像できたら、広げた掌を上にして前にだしてみてください。 雪がひらひらと、掌に落ち、その体温で溶けていきます。 この状況について、雪は落下から逃れることができた、 あるいは、あなたの手が雪にとっての新しい大陸になった、というように見ることができます。 見立てとは、類似点を見つけていくことで、一見違って見える複数の事柄の間を繋ぐことができ、 事物の分節を、ひいては、心身の可動域を新たにする方法だと考えます。

人間の観察力と想像力によって生まれる旅、それが、私が作品を通してあなたに味わってほしいことです。

■ ステートメント(2015年)

着地について、それが私の興味をもってきたことです。
人間はだれしも一回目の着地の経験をもっています。それは生まれて来たときのことであり、そのとき私たちには選択の余地はなく、落下してきただけです。私の制作は、再着地、つまり落下を受け入れ、自らの足で立ち、生きることを肯定するためのレッスンだと言えます。
そのために私は土地、そして人間の身体を観察し、作品のモチーフとしています。
着地する土地はどんな場所なのか。地面だけでなく、水面、テーブル、ベッド、手のひらなど、水平を見出せる大小のスケールにかかわらず観察します。土や水といった素材を用いたり、痕跡や起伏、そこに落下する果実や影、雨などをピックアップして、インスタレーション作品に引用したりします。時にそこに横たわる歴史や物語についてリサーチし、展示空間に反映させたりします。そのような水平的な広がりに対して、人間の身体はどのような営みをしているか、その個別の例も見ていきます。重力によってつねに身体は土地に落下しつづけていますが、私たちは単にその力に従っているわけではなく、その力を可能性に変えて生きています。歩くことに靴や杖が使われ、渡ることに船が使われ、食べることに食器が使われ、眠ることに寝具が使われ、悼むために花や墓石が使われる、などのように、道具は、その営みをについて考えるための注目すべきポイントです。そういった道具を撮影し、個人的な記憶に耳を傾ける旅にでたり、実際に集めたりします。

■ 制作について(2011年)

獲得と喪失を繰り返し、最後に残る固形物を見ることは、
消えない身体をこの世界に着地させることである。

Repeating acquisition and loss, watching a solid remains behind.
Make permanent body land on the world.

■ 未踏の土地へ(2010年個展に寄せて)

ここしばらく大きなインスタレーション作品には、頻繁に水を使ってきた。
それより以前は水を使わずに、水の造形を別の素材で追っていた。
水が、これほどまで私をとらえて離さないのは、
水のもつ絶対的な「水平さ」ゆえにほかならない。

絵画から美術の道に足を踏み入れた私は、
すぐに「与えられた白いキャンパス」を前に呆然としてしまった。
世の中にはすでに多くの絵があったし、今日も生み出されている。
いったい、今更ここに描かれることが許されるほど価値あるものはなんなのだ、と。
描かれることを許されるものを探す道は
この世界への、ひとやものの在り方を問う道につながっていた。

「在ること」には、重力とそれを受け止める地面がかかわっている。
確かなたいらさがあれば、ひとは落下しながら立っていられる。
その確かなたいらさといえるもの、それを私は水面に見てきた。

「土地 / 湿原の杖に依って」というシリーズが昨年末から始まった。
これまで使っていた量とは比べ物にならないくらい少ない水を使って。
しかし水が減り陸地が現れてきたことで、
私はその土地に踏み込んで、その豊かな起伏を知ることが可能になった。

絶対的であるからこそ、触れがたい水面ではなく、
絶対的ではなくとも、ぬかるんでいるとしても、確かに足を踏み入れられる土地へ。

/2010年個展「未踏の土地へ」に寄せて