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■ 個展「everyone and one」に寄せて(2023年)

─ 永遠にあなたを愛していますという言葉は信用されない。永遠と一日、あなたを愛していますと言えば、永遠のように人間が想像するには長すぎる抽象的な時間を伝えるための精確さが生まれる ─ ある詩人の本を読んでいたら、おおよそそんなことが書いてあった。『千一夜物語』の題名にも同じような効果があるという。(_1)

小学生の頃に習った世界人権宣言と私が「再会」したのは、2018年「共同体のジレンマ」展(_2)への参加に際して、作品をつくった時のことだ。“これまでに人間界で想像されたもっとも大きな共同体とは”と考えていて、歴史上はじめてそのような範囲を公に名指したのがこの宣言だと知った(_3)。
All human beingsから始まる条文を読んでいくと、30個もの「everyone」がでてくる。当時、制作の一つのアプローチとして発音のレッスンにしばらく通った私は、当然、頻度の高い単語は重点的に練習を重ねることとなり、やがて、文法上の主語である「everyone」は、世界に向けた不断の呼びかけでもあるのだと感じるようになった。

「everyone」は不思議な言葉だと思う。それを呼びかけるときの範囲は、ほとんどの場合、いつ、どこで、誰が発したのかで事前に決まっている。想定される「すべての人」以外は透明化され、また別のある集団に向けて「すべての人」が呼びかけられ、世界中には大小さまざまな「すべての人」が存在する。複数の「すべての人」に含まれて生きる人もいれば、どの「すべての人」にも含まれず、あるいは拒絶して生きる人もいる。

宣言が採択されたのは1948年のことで、その頃の写真に、起草者の一人であったエレノア・ローズヴェルトをはじめとして、女性や子供たちが宣言の印刷された巨大なポスターを広げて読んでいるものがある。宣言の理念を端的に伝えるかれらのイメージを、今見ている「私」もまた、名指され、呼びかけられる「one」である。

理念としてはどこまでも広がりうる「everyone」に、andをはさみ「one/一人」を並べる。そうするとeveryoneが、現実としての限定的な呼びかけであることが明らかになる(「一日」が「永遠」に精確さをもたらしたように)。しかし、今度はoneの孤立が気になりだす。andは加算というより、分離を強調している。そもそも一人の人間の生は、細胞だけを見ても膨大な生と死の交換からなる仮設のもので、その総体をoneで括っているにすぎないのだから曖昧なものだ。それらすべてをとりこぼさず、限定性をもたないeveryoneを、人の想像できる精確さで表すためには?

本展覧会では、一人と全体の間に行き交う呼びかけのありさまを、卵を媒体として(それは食料に、抗議に、画材に…と生きることのさまざまな局面で役に立つ)、空間に展開できればと思っている。

大和由佳 2023. 2. 8

_1 :J. L. ボルヘス『詩という仕事について』
_2:愛知県新城市を拠点としているアーティストの鈴木孝幸が、地元の旧門谷小学校で企画している展覧会の第5回目にあたる。
_3:各国の人権侵害を国内問題として放置したことが、第二次世界大戦を引き起こしたという深い反省のもと、国際連合によって世界人権宣言が作られた。これ以前のマグナ・カルタやフランス人権宣言などでは、国や階級などで区別し人権の保障範囲は限られていたため、世界中の「すべての人間」が生まれながらにして人権をもっていると明文化したのは、この宣言が歴史上はじめてだったと言われる。

■ Artist Statement(2019年 Jp / En)

雪が降るシーンを想像してみてもらえますか。そこに、あなたの手のひらを差し出します。いくつかの雪の結晶があなたの手に落ちて溶けます。
この状況で、あなたの手は、これらの結晶のための新しい大陸になり、あなたの手の皺は、冷たい水の流れる新しい川になったと見立てることができます。


私の仕事は、絵画を学んだことを背景にして、空間的なインスタレーションを作ることから始まりました。最近は、パフォーマンス、ビデオ、写真、ドローイング、話し言葉など、さまざまな媒体にまたがっています。
作品のほとんどは2つの見方に基づいています。 1つは、垂直性と水平性の継続的な展開として世界を見ること、もう1つは見立てです。
例えば、建物、立っている人、動物、道を突く杖、作物の成長、そして落下物などが垂直性に属します。土地、庭、池、泥だらけ、テーブルの上、ピクニック用のシート、そしてハンカチは水平性に属します。この分類は流動的です。それらはお互いの一部であり、ときに反転します。
見立ては、分類の異なる複数のものを、有機的に結び付けることを促進できます。
見立てるという行為は、人といくつかの物や状況との距離を伸縮させるという点では、ささやかな旅に似ていると言えます。 垂直性と水平性の絶え間ない展開によって生み出される旅、それが私の作品を通して観客が経験してほしいことです。

Imagine a snowing scene, and hold out your palm. A few flakes will land on your hand and melt. In this situation, you can say that your hand became a new continent for these flakes and your wrinkle streaming cold water became a new river.
With a background in painting, I started my career to make spatial installations. Recently, my practice has been spanning multiple mediums, including performance, video, photograph, drawings, and spoken words. Most of my works based on two perceptions. One is looking at the world as continuously-unfoldings of the vertical and the horizontal, the other is comparison. A building, a standing person and animal, a cane which poking the street, growing crops, and some falling object or other belong to the vertical. Land, garden, pond, muddy ground, top of a table, a picnic sheet, and a handkerchief are belong to the horizontal. This classification is in flux. They are a part of each other, and they sometimes will turn into the other side with time. Comparison can encourage that we organically link multiple things from different fields of classification. It can be said that comparison is similar to a modest journey in stretching the distance between a person and some objects and situations. Journeys which a continuously-unfolding of the vertical and the horizontal can create, this is what I hope to audience experience through my work.

■ 個展「インク、ケチャップ、漂白剤」に寄せて(2019年)

近年、訪れた土地に流れる川の水で布を洗い干す、「洗濯」と呼べるような行為を軸として、パフォーマンスや映 像の作品を作っている。作品のなかで「洗濯」は、清めであったり染めであったり、汚すことでさえある多義的な ものだ。今回、こうした制作の延長線にあった、汚れとはなにか、ということを巡る展示にしたい。それを汚れと して判断するのは、誰なのか、どのような背景があるのか。ひとから見れば汚れであり消したいもの、あるいは、 決して消してはいけないものが、別の人から見れば、まったく逆であるということは、個人間だけでなく、国家と 個人、国家と国家との間にも存在するものである。そうした価値観の交差する世界に、まず手にとれる「洗濯物」 を浸し、浮かび上がるものを見ながら、今という時代との関係をなにか取り結ぶことができればと思う。

■ 軸/杖/茎(2018年個展に寄せて)

古い写真の束が棚からでてきた。足元に広がる草を、少しだけ膝を曲げたくらいの高さから、何枚も何枚も撮っているが、まわりの風景が映っていないので、それがどこなのかも思い出せない。とにかくその草の有り様のすべてを覚えておきたいといった勢いで何枚も撮っている(そして、私はそのことを忘れてしまう)。葉はかたく枯れていて、垣間見える地面には少し新しい緑も見えるので、春に近い冬だと思う。それにしても、どうしてこんなに草が倒れているのだろう。写真の中の草は、明らかになにか外からの力で倒れこんでいて、横方向の強い直線が画面を貫いていた。

春、日ごとに青々とした草が目を見張るような勢いで伸びていく。河川敷の草地を杖を手に歩いてみると、風が吹きいっせいに草が波立った。時間を遠くへ遠くへと送り出していくように、そのとき草は倒れる隙のないほどしなやかで強い。振り返ると歩いてきた道は消えている。杖をついて歩くとき、大地が押し返す力を手で感じることができる。それはいつもは足が引き受けている、なんの神秘も教訓もない、私たち固有の存在の重みである。その重みに引き止められて、見たことのない地軸のまわりをぐるぐると回りながら、ひとはそれぞれの「前」という方向に生きている。足が日頃なにを思っているかはわからないけれど、上のほうについている脳や目や手とは全く違うように、私の身体を、世界を、感じているのだと思う。 私が制作で試みていることは、身体をどう把握するかということに尽きるのだと思う。たとえ足の視点をもてたとしても、自分の物なのに直接見ることなく終わるだろう様々な内臓たちの視点をもてたとしても、そのことがわかることはないだろう。どこを歩きどこを避け、何を食べ何を食べず、誰と共感し誰を嫌悪し、それに満足し自省して、取捨の渦中を生きる身体に輪郭はなく、なにをどこまでどのようにかはわからないまま、世界と相互に束ねられたりほどけたりを繰り返していくものではないか。

季節を経れば、この青い草も枯れ倒れていくとわかっている。その草叢の中で一束の身体を立ち上げたいと思う。
2018.4.1

■ 杖を撮ること、杖の写真を見せること(2017年)

「病む人は、病いを物語へと転じることによって、運命を経験へと変換する。身体を他の人々から引き離す病気が、物語の中では、互いに共有された傷つきやすさの中で身体を結び付ける苦しみの絆となる」
『傷ついた物語の語り手――身体・病・倫理』アーサー・フランク

2013年、山道で、一人の杖をつく女性との出会いをきっかけに、杖の撮影を始めた。
撮影は大きく二つに分けられる。ひとつは、町を歩き直接頼んだり、紹介してもらったりして、個人が所有する杖を撮影するというもの、もうひとつは、博物館などで所蔵されているものを撮るというものだ。様々な経緯をもつ杖とまわりの風景を写真に収めてきたが、カメラの前で杖が立つという奇妙な一瞬、その場の雰囲気がいつもふっと和らぎ、ほぼその場かぎりとなる人との出会いを、少しあたたかなものにする。

量や長さや力で、身体の価値を測ろうとするならば、ひとは他人と引き離され続ける。
しかし、誰もが柔らかく傷つきやすい身体を、地面に立たせ、毎日を生きている。

重力も、ひとを支えるための道具という機能も、忘れたかのように一つの杖が立っている。
写真のなかの「使えない」道具は、誰のものでもなく、誰のものでもある。その前に立つ柔らかな身体の数だけ、その柄(え)は何度も差し出される。

■ ステートメント(2015年)

着地について、それが私の興味をもってきたことです。
人間はだれしも一回目の着地の経験をもっています。それは生まれて来たときのことであり、そのとき私たちには選択の余地はなく、落下してきただけです。私の制作は、再着地、つまり落下を受け入れ、自らの足で立ち、生きることを肯定するためのレッスンだと言えます。
そのために私は土地、そして人間の身体を観察し、作品のモチーフとしています。
着地する土地はどんな場所なのか。地面だけでなく、水面、テーブル、ベッド、手のひらなど、水平を見出せる大小のスケールにかかわらず観察します。土や水といった素材を用いたり、痕跡や起伏、そこに落下する果実や影、雨などをピックアップして、インスタレーション作品に引用したりします。時にそこに横たわる歴史や物語についてリサーチし、展示空間に反映させたりします。そのような水平的な広がりに対して、人間の身体はどのような営みをしているか、その個別の例も見ていきます。重力によってつねに身体は土地に落下しつづけていますが、私たちは単にその力に従っているわけではなく、その力を可能性に変えて生きています。歩くことに靴や杖が使われ、渡ることに船が使われ、食べることに食器が使われ、眠ることに寝具が使われ、悼むために花や墓石が使われる、などのように、道具は、その営みをについて考えるための注目すべきポイントです。そういった道具を撮影し、個人的な記憶に耳を傾ける旅にでたり、実際に集めたりします。

■ 制作について(2011年)

獲得と喪失を繰り返し、最後に残る固形物を見ることは、
消えない身体をこの世界に着地させることである。

Repeating acquisition and loss, watching a solid remains behind.
Make permanent body land on the world.

■ 未踏の土地へ(2010年個展に寄せて)

ここしばらく大きなインスタレーション作品には、頻繁に水を使ってきた。
それより以前は水を使わずに、水の造形を別の素材で追っていた。水が、これほどまで私をとらえて離さないのは、水のもつ絶対的な「水平さ」ゆえにほかならない。

絵画から美術の道に足を踏み入れた私は、すぐに「与えられた白いキャンパス」を前に呆然としてしまった。世の中にはすでに多くの絵があったし、今日も生み出されている。いったい、今更ここに描かれることが許されるほど価値あるものはなんなのだ、と。描かれることを許されるものを探す道はこの世界への、ひとやものの在り方を問う道につながっていた。

「在ること」には、重力とそれを受け止める地面がかかわっている。確かなたいらさがあれば、ひとは落下しながら立っていられる。その確かなたいらさといえるもの、それを私は水面に見てきた。

「土地 / 湿原の杖に依って」というシリーズが昨年末から始まった。これまで使っていた量とは比べ物にならないくらい少ない水を使って。しかし水が減り陸地が現れてきたことで、私はその土地に踏み込んで、その豊かな起伏を知ることが可能になった。

絶対的であるからこそ、触れがたい水面ではなく、絶対的ではなくとも、ぬかるんでいるとしても、確かに足を踏み入れられる土地へ。

/2010年個展「未踏の土地へ」に寄せて

■ ステートメント(2009年)

物質と精神の感応をテーマに、インスタレーションやドローイング、オブジェ、写真などを制作している。

制作では、自分の感情—痛み、不安、無力感などが最初の動機になる。

そのような不定形で掴みどころのない感情がどのように生まれているのか、手で触れる物質で再構築し探っていくなかで、作品は生まれてくる。

人間は身体と精神の統一を志向するが、そのバランスは崩れやすく不安定である。

一方、作品は物質と精神の融合であるという点において、人間と相似をなすが、その融合の度合いは揺るぎない。

このため、作品は人間に対して、ある一つのひそやかな「融合」の実例を提示し、統一とはどういったものなのか、その感覚を心の内に体験させることができる。

作品にはしばしば水を用いる。インスタレーション作品では地面や器に水を溜めるし、たとえすでに乾いたドローイングであっても、水の痕跡を意識している。

人間の身体も多くの水をかかえている。猫の舌先を湿らす水、庭の草木に降り注ぐ雨水、轟音をたてるダムの水、寄せては返す海の水、、、と循環する地球の水のひとつの通過点として人間の身体があるのと同じように、作品もその通過点である。水は作品と人間、のみならず、地球全体とのつながりを感じさせるためにも欠かせない素材である。